昭和51年06月04日 朝の御理解
御理解 第62節
「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
今日は福岡の秋永先生がちょうど十年前に、あぁやった大きな事故にあわれて、親子兄弟本当に無い命を、もうこの世に助けて頂いたというて、丸十年に当たるのです。それで今日は私が新たな命を頂いて、生まれ変わらせて頂いた、一応しかも十年を期して、今日はお礼のお祭りをここでして頂きたいと、いう願いが上がっております。ちょうど今日は神愛会でもございますので、神愛会が終わって四時から、お祭りを私が奉仕させて頂く訳ですけれども。
せっかく十年という間、いうなら無い命を頂いて今日おかげを頂いておる、そしてまたこれからも、本当に神様に喜んで頂けるような、御用のできれるおかげを頂いて貰わなければなりませんから、先生一家も心を込めんならん、私もいよいよ心を込めなければならないなと、それに昨日からいろいろと心の上にも、どういうお祭りにならなければならないかと、言う様な事を神様にお願いしておる訳であります。お願いをさせて頂いておりましたら、ちょうど大きな京都当りにあるような、庭園の大きな池があります。
今はあやめ菖蒲ですか、今を盛んに咲いてそして、八橋というですか、あのうはすかの橋の食い違いか何かと言いますよね、あのうこうなった飛び石のこんなになった橋をそう言いますね。なるほど秋永先生の信心、まぁ信徒会長としてあれだけ御用も出来ておるし、御用頂いておりますけれども、確かにねこのう食い違いのおかげであるという感じですね。そしてそのあやめ菖蒲じゃないですけども、見たところ花は奇麗ですけれども、実りになっていないと言う事です。
今までのいうなら先生の信心が、ここであれはこう食い違いになってましても渡れる事は渡れる訳です。まぁそれを一つの不平とも申しましょうか、わざわざねこう一本の橋にするよりも、互い違いにおいた橋にまぁ一つの風情がある訳です。確かに秋永先生の信心は、そういう何ともいえん情緒というか、風情を持ってますよね。まぁ合楽の信心を代表するにふさわしい、まぁ私的なというかね信心、又おかげの受け方も、みなさんがご承知のとおりのおかげを頂いてきております。
けれども神様はそれは、実りいわゆるおかげの世界であって、お徳の世界ではなかったという感じが致します。もう改めて私はこりゃ本当に、いわば合楽の信者の言うなら総代表とも言われる、信徒会長がその程度の事ですから、他はもう推してしるべしである。これはもういよいよお徳を受けなきゃならない。もういよいよいうならば貧争病のない世界というのは、おかげの世界です。おかげを頂いてもう別にお金に不自由する事もないとか、まぁ全ての点に心の上にも。
いうなら家庭円満なら円満という上に於いても、おかげを頂いてまぁ信心のおかげで、おかげを頂いておるというのがどこまでも、いうなら貧争病のない世界というのは、おかげの世界であって、いよいよ真善美に輝く世界というのは、これはもうお徳の世界です。蓮科の橋の食い違いではなくて、本当に大きな川にとても普通では渡れない川を、立派な橋が出来て、その橋を渡らせて頂けれるいわゆる彼岸の世界、川向こうの世界、人間の世界からいうならば神徳の世界。
そういう世界に住んでこそ、信心を頂いておる者の値打ちがあるとおもう。生まれ変わらせて頂いて、ない命を頂いて十年間にならせて頂く。その十年間にならせて頂くそれを記念のお礼のお祭りをする、そのお祭りを境にならどう言う事に、これから秋永先生または一家が、ならなかければならないかと言う事であります。まぁ今日のご理解から頂きますと、随分あちらこちらに先生の話を求めてくる人達が、福岡支部にはやっぱり後をたたない位に、皆んなが秋永先生の話を聞いて助かっております。
最近ではここの連合会の総務部長として、もうそれこそ御用のために、それこそ仕事をするひまがないくらいに御用を頂いております。いわゆる隣接教会である田主丸教会になどには、もう何年になりましょうか、もう毎月秋永さんのお話を信者に聞かせてほしいと言うて、毎月月の二十日には必ずあちらに、合楽教会から田主丸教会にお話しにいっとります。だから先生の話を聞いて確かに、おかげを頂く信心が分かると言う事です。けれどもそこをなら自分自身が頂いておる信心が、おかげの世界ですから。
矢張りおかげの世界だけしか、取り次ぎができないと言う事にもなるのです。だから今日の御理解のところを申しますとね、先ず我が身におかげを受けてと言う事がです、病気でおかげで助かりました、こういう難儀な問題がおかげで助かったあなたも一辺参ってみなさいと。もう最近例えばあの日田の竹内さんなんかもう毎日のように新たな信心、信者をしかも本当に難儀な方達のお導きが、先ずは朝参り来とって、またその方達を連れてお参りになると言う様な事が続いております。
自分が信心を頂いて有り難いと思うから、人にもうそして伝えられる、人を助ける事の手掛かりというか、手立てが出来ておるのですけれども、これは自分がおかげを頂いておるから、そのおかげを取り次がれるだけであって、自分がお徳を頂いておれば、お徳を取り次ぐ事が出来る。いうならば本当の助かりと言う事、だからこの六十二節は幅広く頂けるわけです。初めてお参りをさせて頂いた、初めて聞かせて頂く御理解。
昨日は梅の実会でした。ここで私がお話をしたり皆んなの話を聞いた後に、若先生がもう私ははいつもの事ながら驚いております、と言うてその話をしておりましたが、最近キリスト教の新約聖書を読んでるそうです。ところがもうその親先生が言われる事と同んなじ事を、キリストが言っておる事に驚いてると言うのです。そのキリストの言葉を私は宙には覚えませんけども、私がねここで皆さんがお話しを聞いて下さるのは、もう合楽での信心はおかげを頂く世界というよりも、むしろお徳を受ける。
もう教祖の教典の全ては、もうお徳を受ける事のために、氏子信心しておかげを受けてくれよという、氏子信心しておかげを受けてくれよという、おかげはあの世にも持っていけれるおかげ、この世にも残しておけるおかげなんです。金光大神の、まぁ特異性というならば、そういう教えが一杯なんです。だからその教えを私が、例えば表面に出ておるその軸から、その内容というか、その深さというか広さというものを、私が皆さんに聞いて頂いておる。
それも私の頭脳から出て来る話じゃなくて、いつも神様のお知らせを頂いて、この教えはこんなにも広くてこんなにも深いんだ。ここのところを頂かなければお徳の世界には入れんのだという、お話しをしておりますがです、キリストがこの様にして皆んなに聞いてもらっとる話は、キリストの頭の中から出た話と思うなと言っているのです。私がある自分を支配して下さる。
言うなら特別の神様からのお知らせを頂いて、皆んなに聞いて貰っているのだから、皆んなもその積りで頂いてくれと言う事を言ってるんです。私が言っているのと同じというのは、他にも色々ありますけれども、そう言う事を私が皆さんに言ってる訳です。朝の御理解に致しましても、日々の御理解必ず神様にいうならばお知らせを頂いて、そしていわゆる教祖のいわゆる御教え、私の信心とを一つにして。
皆さんに聞いて頂く訳なんです。だから皆さんが今確かに合楽の方達の場合は、貧争病のない世界に住んでおられると、まぁ私は断言致します。ですからそういう貧争病のない世界に住んでおると言う事は、どこまでもおかげの世界であるから、それから一歩前進してその信心の真をいよいよ現して、徳の世界。、いうならば真善美のいわゆる輝かんばかりの世界に、住み替える事にこそお道の信心があるのです。昨日私が皆さんに聞いて頂いた、あの楽という字についての解釈がございましたね。
あの事を日田の伊藤さんが、皆さん御承知の中々の学者ですから、最高の学校を出とりますし、その昨日の発表を致しております中に、自分は自然科学もやってる。そこで先生のお話しがね、特に分かる訳です深い意味が。昨日はそのドイツ語でなければ分からないその解釈をしておられましたから、まぁその意味をみんなで聞かせて頂いたんですけれどもね。いうならばそのう合楽で言われる、成り行きを尊ぶとか大切にすると言った様な事は、もう大真理中の大真理だと言う。
人間が絶対幸せに絶対にならなければならない、そのなる教えだと言う訳です。風が吹いてくる、その風に従うた生き方をするという、それがドイツ語でなからなければ、表現できない訳なんですよ日本語では。それをぴったりした事にすると、私が日頃皆さんに聞いて頂いておる事に、まぁ大体なる訳なんです。だからなら私が言うておる事はドイツ人であろうが、アメリカ人であろうが、いざ世界総氏子の幸せ人間総氏子がですね、金光大神の教えを頂く事によって、真善美に輝く世界に住む事が出来れる。
そういう神の願い神の理想というその理想世界をです、いわゆる私は和賀心時代を創るという風に皆さんに聞いて頂く訳です。そのなら和賀心時代を創ると言う事の、その根本になるものは何かというと、いわゆる天地書附です。いうなら神の心を心としての生き方を身に付ける事、これは難しいようですけれども、そういう一つの軌道が分かったら、軌道に乗っていくと言う事が、一番みやすくて有り難いんだと言う事を、合楽では先生があらゆる角度から、説いておられると言う事なんです。
ですから皆さんもやっぱりその軌道をね、あのう求めてその軌道にのった生き方にならなければいけんのです。それにはやはり徹する事です。秋永先生が無い命を頂いた。そして十年間生き延びのおかげを頂いた。そこにいうなら、それに対する謝恩のお礼のお祭りがなされる、これを私は日々私の実感なんですけれども、ここに座らせて頂いておりましても、何回もお手洗いに参ります。
それでもう行き戻りもうあのう生き戻り、もうあのうここから私の部屋までは、幾曲がりかしてこう廊下を行かなければなりませんから、結局自分の手洗いを使いますからあちらへ参ります。もうあちらまで参ります行き戻りの、一歩一歩の歩かれておるということの、有り難さをもう一辺お便所にいって、ここへ座ると一段と有り難さが増しとるです、こりゃ不思議です。これはどう言う事かというと、私が永年足が萎えておって立てなかった時代があるからなんです。もう歩かれておると言うこの一歩一歩がね。
本当に有り難うございますと、言ってあのうおらなん程に有り難いです、歩かれておると言う事が。例えば大病を致しましてもう、いうなら呼吸困難と言う事になって、酸素吸入でもさせて頂く、そしてようやく呼吸が出来て助かったという人達がです、本当にこの息の一吸い一吸いがです、本当に有り難い勿体無いという、これをなら道理の上ではここでも、神様の御恩恵の中に生かされて生きておる、生かされて生きておる自分が生きる力はない、生かされて生きておるんだと。
この息の一吸い一吸いも、天地金乃神様のおかげを頂かなければ、出来んのだと言う事を、話にはみなさんが聞いて下さってあるし、けれども実感として私自身がそうです。私がもう根限りの貧乏のおかげを頂いた。おかげでなら私がもう誰よりもお金の大切さということを、心得させて頂いておるから、それこそ十円の金でも、私自身の事にむだなことに使っちゃならないという、もういうならば一切が神様の御物預かっておるだけだから、神様が必要となさるならば、そりゃ億万の金でも惜しいとは思いません。
けれども大坪総一郎個人のためには、それこそ十円の金をわって使うごたる気持ちでおります。だからもう自分の事には、もう使わないともう決めてしまっておる訳です。これは私がその位にお金を大事にするから、私がお金に不自由する筈がないです。これは私がならいうなら、根限りの貧乏をさせて頂いたおかげ。私が足が萎えとったおかげで、一足一足がもうとにかく、歩かれておると言う事が有り難いのです。秋永先生が今日寿命があると言う事にです、そういう私は御礼の心私信心の根本はそれだと思うです。
今日ただ今私がここに生きておると言う事が有り難い。この有り難いと言う事がね、本当に分かったら問題は全部解決するです。はがいい思いをする事も、腹の立つ思いをする事も心配な心も、この寿命があってこそ心配なんですから。もうあの世に行っとるなら、そん代わり心配もなんも無かかん知れんです。けれどもこの心配がこのイライラがあると言う事は、この寿命を頂いておるおかげと分かる時に、問題が解決する程しのおかげをです、そういう信心を根本として。
秋永先生がこれからの信心をひとつ頂き、おかげを頂いていかなければならない。今朝、控えで御祈念をさせて頂いております時に、次々とあのうこまごまとした一人一人の御祈念、お願いと言う様な事は、御神前では出来ませんですからね、ここに控える三十分間が、そういう特別な願いの方達の願いをするんです。そしたらね猫がこう目をつぶったところを頂いたです。もう私はそれを頂いてから、もう新に有り難くならせて頂いたんですけども、最近では本当に私のようなものでも助けて下さるという。
私のようなもんじゃとてもこげな悪かごつばっかりしよるけん、こげん不浄の多い自分じゃから、とてももうお願いしよるばってん本当に助かりゃもきるめと、こういう私はとても難しかと思う心がね、おかげにならん。昨日も毎日今御夫婦で参られる田主丸の別府さんが親先生、この頃は天地書附を奉仕させてもろうて、いわゆるお三宝買ったり色々させてもろうて、拝む場所を作らせてもろうて、もうそれこそ朝晩天地書附、大払いを奉上させてもらう。
そしてから昨日は「本当に神様私のようなものでもこのように助けて頂いてありがとうございます」と言うたげなら、言うたとたんにもう涙がこぼれてこぼれて、だからこげん涙がこぼれてよかっでしょうかというお届けがありました。もうこれは最高の涙。「もう私のようなものでもこのように助けて頂いて、ということを神様がね、お喜び下さる、そのお喜びがこちらに帰ってくるとですよと言うてお話しした事でしたけれどもね、私のようなものでも助けてくださる。
いうならば皆さんも御理解を頂いて御承知のように、猫のお知らせは最高の不浄と言われる。いわゆるもう神様はいうならこの不浄と言う事が一番お嫌いになる。黒不浄とか赤不浄とか、そげな事はこの神様が全然問題になさいません。けれども自分にいわば心にかかる不浄なんです。不浄とは四神様は成就しない事だと言っておられます。だから私のようなものがお願いをしても、成就はするまいと言う様なものが心の底にある限り、やはりおかげにならん、不浄ですから。
昨日私は梅の実会の皆さんに、とにかく若い嫁さんたちばっかりですから。お姑さんの関係、御主人または子供達に対する、いうなら一番家の中では忙しい方達ばかりです。皆子供連れでだから来りと言う様な事なんです。それで全然信心のない家庭に嫁行っとる人もありますし、大払い信行の御祈念なんかも中々出来んかもしれんけれどもです、まぁとにかく金光様、金光様または天地書附なら天地書附を、心の中に繰り返し繰り返し唱えると、言う事は素晴らしい事です。
とにかく大払いを始める、やはり六根清浄と申しますからね。いわば神道からきたこれは唱え言葉ですけれども、これは何というてもみそぎの言葉です。いわゆる自分の六根が清まると言う事なんです。私は昨日一昨日今私の瞑想の時間というのがね、いつもここの控えで三十分が私の瞑想の時間です。皆さん瞑想の時間を日に十分でも二十分でも持つと言う事は素晴らしいです。祈念祈祷とかそげな事は全然ない。ただ目を瞑ってねもう無心になる。そして一つの有り難い事をずっとこう思い続けると言う事です。
この頃はここを下がって自分の部屋にさがった時だけが、瞑想の時間です。もう長椅子に長うならせて頂いて、瞑想に入らせてもらう。そしたら思わず知らず私は、子供の時から非常にあの好きですから、好きだったと思うですね信心が。私のじいが大変な仏教信者でしたから、仏教の経文でも子供の時には覚えとるくらいでした。もうそれこそ畑に行く、たんぼに出るでも、とにかく鍬をかついでは口から出ているのは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といつも唱え続けておる訳です。
ですからそれを思い出させて頂いてね、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、唱えよったらね、有り難ぁたくなってくるです。不思議です。それから法華経の南無妙法蓮華法。南無妙法蓮華法、南無妙法蓮華法と唱えるとですね、不思議に元気が湧いてくるです。素晴らしいですね、宗教のそれぞれがもつ一つの力というものは、素晴らしいです。そういう意味であなた方は大払い信行も出来んのだから、一ついわゆる金光様、金光様。
いわゆる天地書附なり、生神金光大神天地金乃神を繰り返し、それこそ百辺ずつ位は唱えなさいと言うて、まぁ申しました事でしたけれどもね、いうならば大祓い信行によって六根清浄、自分の心が清まると言う事が、その清まった心がです、そして私のようなものでも助けて頂くという、私はお礼になってくる時に、神様に通わないはずがない。不浄がなくなってしまう。だから成就すると言う事にもなるのじゃないでしょうか。猫が目をつぶったと言う事は。
どういう罪汚れの多い人でも、どういう不浄を持っている人でも、今の合楽のお取り次ぎの働きというものは、そう言うどういう人でもその時点においてです、神が目を瞑ってやると言う事なんです。私は今日その猫が目を瞑ると言う事から。そういうご理解を頂いてもういよいよ有り難くなって来るけれども、私はそういう思いでです。けれども私の様なものがという、いや私の様なものでもお助けを頂けれるという信心。
そこには芯としてです、信心とはいよいよ本心の玉を研いていくのであり日々の改まりが大事であり。お道の信心でいうなら天地書附、「生神金光大神天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にあり」という、その和らぎ喜ぶ心を、願い求めて行くと言う事が信心だと言う事だけは、分からなければいけないというのです。そしてそれに一分ずつでも一輪ずつでもいいから近づかせて頂こうという、精進が信心の姿になってこなければならないと言う事です。
お前は穢れとるからおかげはやらん、お前のおかげの受けものは荒いからやっても漏れてしまう、というのではなくてです、私の様なものでもと言う所に、神様がいうならばその過去の事やらお粗末ご無礼やらは、目を瞑ってやると仰せられるのですから、おかげを頂かなきゃならんと言う事です。ですからそのおかげが頂けるように、いうなら働きが生まれて来るですから、いわゆるお徳を受けて行くと言う事には、本気で私共が心を向けさせて頂きませんと、やはり疎かになるというきらいが出て来る訳です。
今日は「わが身におかげを受けて、後に人を助けてやれ」と言う事は、初めてお参りをして初めて聞かせて頂いた天地の道理、天地の御御徳。はぁそれこそ人間が幸せになって行く為には神様の働きを、本当に合掌して受けて行く事が人間の幸せにつながる事だと、例えばなら伊藤さんがドイツ語でそう言う事を言っておられますようにです、そう言う事が初めて分かったと言う事だけでも、金光様の信心ちゃ有り難いばいと言って、人に伝える事が出来た。自分の心がそれだけ助かる手掛かりが出来た。
そういうところからです、おかげを受けたじゃなくて、お徳を受けていよいよ人が助かるという意味においての事は、自分がまず徳を受けて、そして人を助けてやれ、本当に完全に自分が自他共に助かっていくという、そういう幅広ぅい意味での教えである事を今日は聞いて頂いた訳です。そこでなら秋永先生が今まではね、いうならば、はすかの蓮の食い違いおかげはいかにもこう、あやめかきつばた、花菖蒲というか。いよいよ見事な一つの庭の風情というか、信心の風情を身につけてきたけれども。
それはやはり食い違い的なおかげであったと言う事です。そこでお互いが思うてみると、はぁしてみるとこれは私達もみんなそうだと言う事になるです。そうするとまだおかげの世界にだけしか住んでいない、お徳を受ける生き方をこの様にも教えて頂いておるのに、お徳と言う事に繋がっていないと言う事を分からせてもろうて、そんならいよいよお徳を頂いて行く事の、信心とはと言う事になります時にです。
なら合楽で毎日頂いておる、これは神様からこういうお知らせを頂いたというて、皆さんに聞いて頂く様なお話しは、みんなお徳を頂く基なんです。そこを大事にして自分の信心にして、それこそ食い違いの橋ではない、それこそ大きな橋を渡らせて貰える様なおかげを頂かなければね、こちらのいわば苦の世界というか、又は要約おかげを頂いておかげの世界に住んでおる、もう一つ向こうの彼岸の彼方に渡らなければならない。そこにはもう神様と同居できれる神様の世界、御神徳の世界があると言う事です。
秋永先生が今日を境に目指さなければならんのはそこだと思うですが、これは秋永先生を始めとして、ここにご縁を頂いておるみんながです、そういう一つの切っ掛けを頂いて、神様の世界に住まわせて頂けるようなおかげを、お徳を受けたいと思います。そういう私力を頂いて本当の意味においての、人を助けてやるというおかげに繋がって行くのじゃないかと思いますね。
どうぞ。